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神戸地方裁判所姫路支部 昭和36年(わ)523号 判決

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実は、「被告人は甲大学の学生であるが、昭和三十五年六月頃から加古川市加古川町篠原町八十一番地の一自宅二階の一室を夜間勉強と就寝のため間借りをしていた乙大学の学生A子(当十八年)に対しかねてより思いを寄せていたが同女にその気持を打明ける機会もなく日日を送つていたところ、昭和三十六年八月二十六日午前四時三十分頃前記自宅階下の寝室において性的欲求にかられ俄かに劣情を催し、不図右A子が二階の居室で独り就寝中を想起するや同女を強姦しようと企て、秘かに床から起きて脅迫に使用するため前記自宅階下表六帖の間の押入れから刃渡り約五十九糎の日本刀を取り出して前記A子の居室に忍び込み、同所において、室内の電灯を点灯して同女が就寝しているのを見定めてから蚊帳の裾をまくり上げ同女の身辺に近寄ろうとした際、同女が人気に気付いて目を覚まし助けを求めようとしたので、最早同女に自分の姿を現認されたからには右の所為を暴露されるに違いないと恐れ、咄嗟に同女を殺害しようと決意し、即座に室内の電灯を消してから前記日本刀をもつて同女を目がけて一回強く突き刺し、同女に左鎖骨部に長さ二、三糎の刺創、左肺、食道、右肺等を貫通して右第六肋骨後胸廓面に達する創管の長さ約二十四糎の左、右肺並びに左鎖骨静脈刺創の傷害を与え、右傷害による出血多量のため同女をしてその後間もなく同所において死亡するに至らしめて殺害の目的を遂げたものである。」というのである。

そこで考えてみるに、≪証拠省略≫を総合すれば、被告人が公訴事実記載の日時場所において同記載のような方法で被害者A子を突き刺し死亡させた事実が明白であるほか、右犯行の前後いきさつについて次のような事実を認めることができる。

被告人は、肥料商を営む父B、母C子の長男(一人息子)として、丙高等学校を経て本件犯行当時甲大学の社会学部四年生として在学していたもので、明朗な反面温順、気弱でやや消極的な性格であつたが、昭和三十六年七月一日から始まつた夏季休暇は被告人にとり学生生活最後の夏休であつて、卒業論文等の準備もしなければならぬし、又経済的な必要も格別ないので、アルバイトをするつもりはなかつたところ、その前年の夏にアルバイトにいつた自宅附近の製求会社から頼まれて父が被告人のアルバイトを引受けてしまつたので、前記のような性格からこれを断ることができず気の進まぬままに前年同様休暇に入ると同時に同会社の自動三輪車を運転して氷配達の仕事をするようになつたが、酷暑の折、右仕事は時間的にも体力的にも激務であり、又、人の気を汲む性質からして休むことなく働き続けたため次第に疲労が蓄積し、約一ヵ月後には、肉体的な過労と、卒業論文の準備などに未だ何も手をつけていないという精神的な焦りとで、心身ともに疲労し、不眠、頭痛を訴え、日頃になく緘黙となつてしまつた。このような心身の過労状態にあつた際、たまたま同年八月十日頃、配達先の氷店で、自動車から氷を降す際、これを手伝おうとした同店の主人Dのその申出をふとした気持から断わつたことで、激怒した同人から大声で怒鳴られたため、気弱な上に右のように心身の疲労状態から被告人はこれにいたく驚愕と恐怖を覚え、爾来不安と被害の想念にとりつかれ、同月十三日頃の夜喫茶店に行つた際、乗つていつた自転車のブレーキに小石がはさんであつたのを見て、これを単なるいたずらとは思わず最前同喫茶店にいた数人のやくざ風の男が前記Dの指図で自分に嫌がらせをし因縁をつけてきたものと解釈し、爾来、「Dがやくざを使つて自分をつけねらい危害を加えようとしている」との妄想的観念を抱くに至り、やくざにおびえていることが周囲の者にも気づかれるようになつた。例えば、道を通る若者が自分の蔭口を言つているように思い、後から来る自動車が自分を追跡しているように感じられ、警察官の姿を見れば自分を調査しているような気がし、同月十五日頃には、右のように妄想的な不安を書き綴つた「重大メモ」と題する書きつけを母に手渡したり、やくざ関係の表を作つて見せたりし、同月二十一日頃には大学の指導教授をその自宅に訪ねて、ぐれん隊というようなことを紙片に書いて見せたりした。そして被告人は、更に寡黙となり、不眠に苦しみ、又次第に言動が粗暴となつて、日頃になく他人に対し無遠慮な言辞を浴びせるようにもなつてきた。ところで被告人と被害者A子とは、同女の一家が昭和三十二年頃被告人方裏手に転居して来てから見知るようになつたものであるが、同女の父Eは、被告人の父と小学校当時の同級生の間柄であるところから以後毎晩のように被告人方で風呂を貰つたり遅くまでテレビを見たりして出入りし、又それまでの種種のいきさつもあつて、被告人一家の者にむしろ厚顔との印象を与えていたが、同人の長女であるA子が丙高等学校三年生に在学中の昭和三十五年四月頃、父Eは、A子の大学受験勉強のために自宅が狭いところから、間数の多い被告人方の二階五畳半の一間を借り、以後A子は夜九時頃から朝七時過頃まで夜間の勉強と就寝のためにこれを使用し、昭和三十六年三月に乙大学教育学部に合格した後も同じ状態が続いたが、その間被告人と同女とは、高等学校の同窓生としての話題などで数回口をきいたことがある程度で、被告人においても、同女に特別の好意を寄せるというほどの気持はなかつたのである。そして被告人は、このような間柄にあつたEに対しても、前記同年八月中頃から同人をやくざのスパイであると思い込み、又A子もスパイで、二階で自分らの話を盗み聞きして父Eに告げ、Eからやくざに伝わるとして同女に対しても警戒心を持つようになり、その旨家人に注意したりもした。このような異常な状態であつた被告人は、本件犯行の前夜は階下八畳の間で十二時頃就眠して当日午前四時頃目をさまし、家人が就寝する隣室の押入れから日本刀を取り出し、シヤツ、パンツ、腹巻姿のまま、タオルで鉢巻して二階へ上り、被害者A子の就寝する部屋横のベランダから自宅大屋根に上り、夜明け方の薄暗い大屋根の上を、抜身の日本刀を振り廻しながら約十分間前後も往き来した後、家の中へ引き返し、A子の部屋に入り、まず電灯をつけて同女の寝姿を見たうえすぐ消灯し、蚊帳の裾をまくつてその中へ入つたところ、同女が布団の上に上半身を起し、驚ろきの意味を表わす声を立てたので、被告人はとつさに所携の日本刀を同女に向つてほぼ水平に突き出し、同女の左鎖骨部を一突きした後、階下に降り、折からA子の悲鳴を聞きつけて起きて来た父Bらに直ちに取り押えられ、刀を取り上げられたが、被告人はその際暴れたりする様子もなく、唯目をすえて、「これでええんや、後で判る」などと口走つていた。間もなく逮捕された被告人は、その後の取調に際しても、格別良心の呵責を感じている様子もなく、捜査官の顔をじろじろ見たりして長い時間ものを言わず、かと思うとニヤニヤして世間話のように話し出したり、「わしがA子さんをやつたら、やくざの間に大きな争が起る」などと供述したり捜査官としても、このような被告人の異様な態度を作為的なものと感ずることはできなかつたのであるが、被告人の前記のような一連の症状は、その後精神鑑定のため病院に入院中約一ヵ月余の後全く消失し、前記夏休以前の日頃の被告人の状態に復したものである。

以上認定した事実と、鑑定人村上仁、同長山泰政各作成の被告人に対する各精神鑑定書及び証人村上仁の当公判廷における供述を総合すると、被告人は、心身の過労状態にあつた際に前記Dの激怒に会つたことで精神的な衝撃を受け、前記認定の八月十日頃以降、被害、追跡、関係等の妄想的観念を主要徴候とする妄想反応状態を発呈し(長山鑑定)、もしくは、急速に発現した予後良好な精神分裂病に罹患し(村上鑑定)たもので、そのいずれにせよ、病的妄想状態のもとにおいて本件犯行がなされたものであることが認められる。

もつとも、被告人は、本件犯行後同年八月三十日の取調に至つて、司法警察員に対し、犯行の動機につき初めて「日本刀で脅して肉体関係をしようと考え、A子の部屋へ行つたが、同女にさわがれそうになつたのでかつとなつて突き刺した」旨供述し、その後も検察官及び鑑定人長尾茂等に対しては同趣旨の供述をしており、右鑑定人は犯行の動機に関するこのような供述と被告人が格別の治療もなしに比較的短時日で自然快癒した点とを主たる理由に、「犯行当時相当強い程度の心神耗弱状態ではあつたが心神喪失状態にまでは至つていなかつた」旨の意見を示しているのであるが、前記村上鑑定によれば、被告人が前記のように供述したのは、犯行後においてその動機を執ように追求された被告人としては性的動機によつて赴いたと述べる以外に表現の仕様がなかつたことによるものであつて、犯行直前の被告人の奇怪な行動、兇器の種類、被害者に対しその当時抱いていた警戒心、などの諸事情に徴しても、被告人が供述するように本件犯行が仮りに性的動機によるものであるとしても、当時の性的欲望を行動に具体化させたものは被告人の分裂病的な人格変化による「衝動性昂進」であつて、正常者の性的動機とは質的に異つた病的衝動行為にすぎないものと認めるのが相当であるから、本件犯行が病的妄想状態のもとにおいてなされたとの前記認定の妨げにはならないというべきである。

従つて被告人は、本件犯行に際し、右のような精神障碍によりその是非善悪を弁別する能力及びその弁識に従つて行動する能力を全く欠いていたもので、結局被告人は、本件犯行当時刑法第三十九条第一項にいわゆる心神喪失の状態にあつたものと認めるのが相当であるから、刑事訴訟法第三百三十六条前段により被告人に対し無罪の言渡をすることとする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 三上修 裁判官 桜井敏雄 沢田脩)

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